置賜十三夜
Daisaku on Feb 1st 2010

今宵は十六夜。この冬は、満月あたりの夜がよく晴れて、月が美しく見えることが多かったような気がする。上の写真はひと月前に、山形は置賜を走る米坂線の車窓から撮影した十三夜の月。反対側の窓から長い夕暮れを追っていた僕がふと振り返ると、静かに広がる盆地の向こうに、白く輝く月が昇っていた。駅をいくつか過ぎるうちには越後の方から雲が厚く流れてきて、ますます高く輝き始めた月の姿を雲の向こうに隠してゆく。次の日からは風雪入り混じる北陸の空の下で、まん丸いお月様の姿は今週末まで目にすることはなかった。
月日の経つのは早いもので、明日からはもう2月。お知らせが遅くなってしまいましたが、昨年に引き続いて今年もカレンダーを自主制作しています。数に若干の余裕があるので、ご希望の方には実費(600円分の切手にて。送料込)にてお頒けしたいと思います。contact(アットマーク)oozu.info宛、メールをお送りください。折り返し、切手のお送り先をご返信いたします。カレンダーはA4版の4色オフセット印刷、1ヶ月1ページで作品14点が収録されています。

日はまた昇る。
Daisaku on Jan 1st 2010

あと数分で夜が明ける。ずいぶんと肌寒い年越しになった。
壁が消えて20年の年も暦の向こう側に去り、2000年代が終わる。2010年だなんて、アーサー・C・クラークの小説のようで何とも実感が湧かない。多くの人はいま、星の海より暗いぬかるみに足をとられ、凍えながらもがいている。冷たい風が吹く世界の一隅で、あたたかな日差しを待ちながら。
日はまた昇る。肌寒かろうが辛かろうが、夜明けは今日も訪れる。
皆さん、どうか今年も元気で。とりあえず元気で。
壁のあとで
Daisaku on Nov 11th 2009

20年が過ぎた。ということは、僕自身の上にも同じだけの時間が通り、過ぎ去って行ったということだ。ベルリンの壁が打ち崩されてゆく、あのニュース映像。感受性の固まりのような年頃の僕に、それは初めて体験する同時代の大きなうねりだった。いや、あの頃、間違いなく時代は変わろうとしていた。1989年…。
アメリカの核の傘の下、「鉄のカーテン」の向こうをどのように見ていたか、あるいは見ていなかったか。とにかく、ペレストロイカは新しい兆しだった。ゴルバチョフは、それまでの皺くちゃの風貌をした指導者たちとは確かに違って見えた。古いドクトリンは放棄され、やがて長い冬を耐えた国々の人たちの声が、例えばワレサ率いる連帯を後押しして、改革の波はもはや遡ることのない流れとなってゆく。ハンガリーとオーストリアの国境を一千人の人々が越えた。東ドイツでも市民によるデモが頻発し、ホーネッカーが辞任する。そしてあの日、ついに「壁」は破れた。たとえ誤報が最後の引き金だったとしても、越境を止める者はもう誰もなかった。抱き合う人々の熱気、次々に走り抜けるトラバント。あれほどの歓喜の渦というものを、僕はそれまで見たことがなかった。
時は流れ、冷戦後の世界に民族紛争の嵐が訪れた。ソビエト連邦は崩壊し、長い経済的苦境の果てにロシアは独裁色を強める。アメリカは核では抑止できない相手との、泥沼の戦争に足を踏み入れた。そして再統一を果たしたドイツには、旧東西間の容易には埋められない格差に端を発する、幾つもの難問が待ち構えていた。
今日、あの橋を渡るメルケル首相の横顔に、複雑な思いが浮かんで見えたのは気のせいだろうか。彼女を含め旧東ドイツに暮らした人々にとって、この20年はどのような意味を持ったのだろう。2009年、巨大なベルリンは20世紀をあちらこちらに覗かせたまま、グローバリズムと様々な歪みを抱えた現代の先頭を疾走している。夕暮れ時、カール=マルクス大通りからは美しく沈んでゆく夕陽を見ることができる。そびえ立つ「東」のテレビ塔の先、ミッテ地区のすぐ向こうに、人の営みと思いを断ち切る「壁」があった。その影は今も、人々の暮らしのどこかに差し続けているのだろうか。
Okhotsk
Daisaku on Mar 3rd 2009

海だ。生まれて初めて目にしたオホーツクの海。静かに本当に静かに、波が打ち寄せては返す北の冬の海。紋別郡興部(おこっぺ)町、午後5時12分。
稚内行き特急列車を名寄で降り、天北峠を越え湧別、興部へ。かつての名寄本線を辿って走るバスは少し遅れ、興部駅跡のバスターミナルに着いたのは陽も暮れたあと。どうしても今日の海を、初めてのオホーツク海を見たかった僕は、人影もない通りを歩き始めた。風はなく、寒さは耐えられないほどではないが、街を離れたら街灯もまばらになる。暗い雪道とアイスバーンに、小型のマグライト一本では心許ない。しばらくするとタクシーの行灯が見えた。さっそく捕まえて運転手に意図を伝えると、漁港の外れへと車を走らせてくれた。

道端に吹き溜まりのようになった雪に足を取られながら、砂浜の頂上に出る。浜を白く覆う雪。ごく淡く、ようやくそれとわかる水平線の上に、防波堤の突端を示す赤い光が頼りなく灯る。流氷は見えない。しかしこの青い海岸の、深く静かな美しさはなんだ。衝かれたように波打ち際へ、浅瀬へと歩く。遠く見える明かりは港か集落か、岬の先に水平線はすでに判然とせず、空と海の境界は極めてあいまいにぼやけていた。青と黒のグラデーションに染められた世界をさまようように歩く。やがて防水のスノーブーツを洗いつづける波が、芯まで凍る北海の冷たさを伝えて我に帰った。砂浜のスロープをゆっくりと辿って、歩いてきた方角へと戻る。辺りはすっかり夜の帳が降り、漆黒の闇の先に海は見えない。かすかな波の音すら、もう聞こえてはこなかった。
塩狩峠
Daisaku on Feb 28th 2009

旭川を出て30分。ディーゼルエンジンの音は徐々に低く、唸るように響き始めた。車窓の左右に林が迫ってくる。稚内行きの特急列車は、石狩と天塩を隔てる塩狩峠に差しかかっていた。
100年前の今日、1909年(明治42年)2月28日夜。名寄を発ち、旭川に向かっていた上り旅客列車は、塩狩峠の分水嶺で非常事態に遭遇する。最後尾の客車の連結が外れ、峠を逆行して下り始めたのである。乗客としてこの車両に乗っていた鐵道院の職員が気づき、手ブレーキを操作して暴進を防ごうとするが叶わない。刻一刻と加速してゆく客車を止めるため、遂に彼は自ら線路に身を投じ、乗客の命を救うことを決意する―。

彼の信仰や、鉄道員としての使命感が、どれほどの影響を与えたかはわからない。しかし乗客全員を悲劇から救った献身の精神は、いまも多くの人の胸を打つ。乳白色に傾き始めた午後の光がほのかに明るく照らす中、ディーゼル特急は峠を下りはじめていた。エンジン音が力強さを取り戻し、列車はスピードを上げていった。
夜明けの海岸
Daisaku on Feb 23rd 2009

夜が明ける。日高山脈が太平洋に落ち込んでゆく険しい海岸線に、打ち寄せる波頭が白く浮かび上がりはじめた。ディーゼルカーは酷寒地仕様の二重窓で、レンズをまっすぐ押し当てても車内の明かりが映りこんでしまう。あきらめてデッキへと出る。車端部の激しい揺れに気を使いながら、ドアの窓にカメラを近づける。ズームレンズを広角側に引いて、空と海を大きく画面に取り込む。ファインダーを横切って鳥が一羽。その姿を追って黒い群れが続く。徐々に雲の量感がはっきりと見え始めて、やがて朝日が空に赤みを加えてゆく。
北へ
Daisaku on Feb 19th 2009

しばらく更新が滞ってしまったが、先週、いくつかのテーマを取材するため北海道を訪れたので、今回から数回にわたってその道中記を披露したいと思う。
19時3分。青い寝台列車は上野駅を離れ、1,200kmの道程を静かに辿り始めた。懐かしいオルゴールの音色がスピーカーに流れ、車掌が各駅の停車時刻を読み上げてゆく。札幌駅まで16時間あまりの旅路はいかにも長閑だが、優雅に寝ている暇など私にはない。窓の外に流れる光を追って、北への旅が幕を開けた。
雪は、綺麗ですか?
Daisaku on Jan 11th 2009

「この雪は、綺麗ですか?」
列車は上越国境への入口、水上の駅に到着する直前だった。ドアの窓から雪化粧をした木々を撮影していた私に、その人は声を掛けてくれた。夜来の吹雪がおさまり、つかの間の晴れ間が訪れた昨日昼のことだった。
土地の人と思しき彼女の、言葉通りではない意味を含んだ問いに、しかし私はうまく答えられなかった。何度聞かれても、いつも、上手に答えることのできない質問だった。越後で、津軽で。陸奥で、夕張で。いつ何処で問われても、私は答えに窮してしまうのだった。
寒冷地に住む人たちにとって、雪や冬の悪天候はその美醜にかかわらず、日々の生活のみならず時に生命をも左右する切実な問題に違いない。江戸時代、越後魚沼に生きた鈴木牧之の著作『北越雪譜』に、次のような一節がある。雪深い地方の激しい吹雪の中でいかに人命が失われるか、事例と絵を交えて描写したのち、
「…雪吹(ふぶき)の人を殺す事 大方(おおかた)右に類す。暖地の人 花の散(ちる)に比(くらべ)て美賞する雪吹と其(その)異(ことなる)こと、潮干に遊びて 楽(たのしむ)と洪濤(つなみ)に溺(おぼれ)て 苦(くるしむ)との如し。雪国の難儀 暖地の人おもひはかるべし。連日の晴天も一時に変じて雪吹となるは 雪中の常(つね)也(なり)…」(初編 巻之上 雪吹 岩波文庫版より抜粋)
私の作品には、冬に雪の降る土地で、荒れた天候をとらえたものが少なくない。鈍色の冬空を見れば、心がどうしようもなく北へと向かうのは、温暖な大阪で生まれ育ち、いま東京に暮らす自分には馴染みのない、一見ひとを寄せつかせないような北国の冬の風景に惹かれているからなのは間違いがない。
その陰翳の中にあたたかさがあり、その海に、田畑に、山林にそして雪に、日本の暮らしが支えられていることを、私は知っている。寒地の辛苦をわかちあうことはできなくとも、なぜ撮るのかと問いかける人の気持ちを、思いはかることのできる自分でいたい。だが、こうしてふと、その問いを投げかけられるとき、私はやはり戸惑いを隠せない。上手な答えなどありはしない。白い世界の底を進む列車の中、伝えられなかった思いが心の片隅に残り、やがて雪片とともに宙を舞ってゆく。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
私の作品が、ドイツのアート雑誌の表紙を飾ることになりました。よろしければご覧ください。
“Schöngeist” Ausgabe 19 (2008年冬号) Apodion Verlag 刊
“Schöngeist” Ausgabe 19 (2008年冬号) Apodion Verlag 刊
十三夜の月
Daisaku on Sep 16th 2008

旅の終わりにはいつも、寂しさと安堵が心のなかに折り重なる。東へ向かう列車の車窓から大きな湖が見えなくなった頃、遠く稜線の上には夕暮れに照らされた雲が踊った。しかしそれもわずかな間で、つるべ落としに暗くなってゆく宵闇の色が秋の到来を告げていた。
列車は小さな駅に停まった。通過待ちのためしばらく停車するという。プラットフォームに降りると、いっせいに虫の声。ほどなく閃光が近づき、光の帯となって向こう側の線路を駆け抜けてゆく。さて、と列車に戻ろうとして振り返ったその時、東の空にかかった月の姿が僕の視線を奪った。
群青色の薄暮の中、わずかに紅く、わずかに満たされないまま、十三夜の月が刹那を凍らせていた。
夏空の記憶
Daisaku on Sep 11th 2008

あれは小学校の夏休み、毎日のように通ったプールの帰り道。家の近くまで来た僕は、ふと空を振り返った。
かみなり雲がもくもくと聳え立つ空。昨日と何ひとつ変わらないような昼下がりの夏の空。でもそのとき僕は、何故かその光景に違和感を覚えた。夏休みそのもののような青い空、毎日そこにあって当たり前のように思っていた景色と、その日は何ごとかが決定的に違うように思ったのだ。
いったい何が違っているのか、探しても手がかりは見つからない。空はいつもの夏空で、雲はいつものかみなり雲だった。空の方に違いがないのなら、変わったのはそれを感じる自分の方だった。そう気づいた瞬間、小学生の僕は、自分が何かもう戻ることのできない橋を渡ってしまったことを知った。
年が過ぎれば季節はまた同じように巡り来るけれど、今年の夏は決して去年の夏ではなく、今歩いている自分は去年の、昨日の自分ではないのだった。永遠に続くように思えた夏休みにも、いつか終わりがやってくる。いまは子供の自分も、いずれ子供ではなくなってゆく。何ひとつ変わらない夏の空なのに…何ひとつ変わらない夏の空だからこそ、僕は知らされたのだった。時は流れ移ろい、そうして限りある時間の中に、自分もまた生きているということを。
列車は午後の時間の中を進んでいた。車窓には遠く秋の色を帯びはじめた夏空と、形を失いかけたかみなり雲が映る。無邪気に過ごした少年の日々と訣別し大人へと一歩を踏み出したあの日から、もう幾度めの夏。今年も忍び寄る秋の気配の中、もう少しの間だけ夏の光を感じていたかった。

