Daisaku on 5 月 9th 2012
「一年経って、ここまで片付きました。でもそれだけ。片付いたというだけ」
Fさんはそう言って道の先に視線を戻した。路肩も定かではない道路の左右には見渡すかぎりの荒れ地が広がっている。焦茶色の泥濘と無数の水たまり、枯れた冬草の茶色、わずかに残った雪。右手にはところどころ破れた堤防の向こうに波頭が白く見え隠れしていた。
2012年3月11日、南相馬市原町区の海岸近く。そこには津波に蹂躙された荒廃地がどこまでも広がっていた。昨春、震災後に再訪した陸前高田の風景が、まぶたの裏に重なって見えた。
原町区に住むFさんとは偶然に出会った。警戒区域との境界付近、作付けの出来なくなった農耕地などを丹念に撮影して歩いていた私に、Fさんは海岸方面の案内を申し出てくださった。私は普段、公共交通機関または徒歩での撮影行を基本としている。海岸へもそのあと歩いて向かうつもりでいたが、Fさんの好意を受け、私は車の助手席に乗り込んだ。
友人の暮らす気仙沼を始め、津波によって壊滅的な被害を受けた地域を、震災のあと幾度も訪れてきたが、福島県浜通りの沿岸部は他県とは異なる様相を呈している。広大な地域に広がる今回の被災地の一部を見聞しただけで安易に語れはしないが、明らかに復旧作業が進んでいないことが見て取れる。Fさんにそう話すと、冒頭の言葉が返ってきた。走っている道の両側には、かつてびっしりと人家が続いていた。それが根こそぎ流されてしまった。膨大な瓦礫は自衛隊の懸命の努力も得てようやく取りのけられたという。
やっと瓦礫は片付いた。しかし、ではこれからどうするのか。その先が見えない。
津波に倒されてしまった高圧鉄塔の近くに、瓦礫置き場があった。木材や石材を始めとする建材、道具類や家電などのほか、一定の長さに切りそろえられた松の幹も一山をなしている。防潮林の残骸であった。
瓦礫の中には二隻の小さな漁船があった。舷側に赤いスプレーで記された「連絡済」の文字。それをFさんに話すと、車は再び北へ向かった。

真野漁港[福島県南相馬市鹿島区にて 2012年3月11日撮影]
Fishing gear and fisher-boats became useless, Minami-Souma, Fukushima / March 11 2012.
Photography by Daisaku oozu.
「ここが真野。真野漁港です」
ささやかな漁港に、設備はほぼ跡形も残っていない。しかし、岸壁には陸揚げされた数隻の漁船が整然と並べられ、拾い集められた漁具が山と積まれていた。警戒区域内の浪江町、請戸漁港の船もある。津波の日、漁師たちが必死で守ったに違いない船。さらに北、相馬市の相馬漁港を訪れると、そこには百隻を超えると思われる漁船が、ほぼ無傷の姿のまま静かに舫われていた。
深刻な海洋汚染を受けて、福島の漁協は沿岸部での漁の自粛を続けている。船は無事でも、目の前に広がる海には出ることができない。では、どうやって生活を再建すればよいのだろうか。
漁業も農業も明日を描けない。生活基盤が破壊されただけではなく、復興したくとも原発事故がその道筋を不透明なものにしている。そして、放射性物質の排出は依然として続く。
「私たちは、モルモットのようなものですよ」
Fさんが言う。政府は、折に触れ「ただちに健康には影響しない」という表現を繰り返してきた。しかし、将来どのような影響が現れるのかは見当もつかない。ふと「棄民」という言葉が頭をかすめる。
御礼の言葉を述べて車を降りる。薄い陽射しが雲間から降りて、町を淡く照らしていた。
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Daisaku on Apr 15th 2012

一年が過ぎた[福島県南相馬市鹿島区にて 2012年3月11日撮影]
One year has passed, Minami-Souma, Fukushima / March 11 2012.
Photography by Daisaku oozu.
去る2月、ドイツ・ベルリンのギャラリーから1通のメールが届いた。
私の新作について、個展の開催を打診する内容であった。新しい作品は日本各地に材を取り、風景の奥に潜むものを炙り出す写真作品として、ベルリンでの発表を想定しつつ2009年から撮影を進めていたもので、だからこのメールは私にとって待ち望んだ返答であった。朗報に喜ぶ私に、やがて追伸が届く。
May I tell you another careful idea:
Could you make photographs about the fukushima incident?
加えて、福島の原発事故について撮影できないか、というのである。
おそらくドイツは、福島に最も強く関心を寄せる国の一つに違いなく、ギャラリーの考えは理解できる。世間の耳目を得るためのものではなく、”careful idea” であるとも断っている。だが私は考え込んだ。
新作は「光のシークエンス」などに比べ、私自身の社会に対するさまざまな問題意識を強く反映した作品であり、震災の1年半前から制作を進めてきたが、昨年の一連の大災害と原発事故を受けて、私はテーマがより深まったことを自覚していた。その結果、作品にはすでに福島を含む各県の被災地を撮影した写真が含まれているが、福島をよりクローズアップした場合、作品や展示の中でどのようにバランスをとるか。また事実上、警戒区域内に入ることのできない現状を考えると、果たしてどれほどのことを伝えられるのか…。
それでも、私は再び福島へと向かった。安定しない3月の空模様のもと、浜通りから中通り、そして会津へ。これから数回にわたり書き連ねる記事は、そのささやかな備忘録である。
私は、一般の人が普通に立ち入ることのできるルートを辿って撮影した。
しかしそれでも私はそこかしこで、少なくとも私にとって、現場に足を運ばなければ骨身に沁みて知ることのなかった、過酷な現状を思い知らされることになる。
撮影を通じて、さまざまな方々との出会いがあった。福島に暮らす人、福島を故郷に持つ人、事故以前に福島に移住してきた人。自らの手で発信を続ける人、そして到底言葉にはできない思いを抱えて暮らす、数多くの人々。幾人もの方にお世話になり、会話を重ねる中で、福島の撮影にあたって自分が立つべき位置を再確認できたと思っている。
私は報道人でも運動家でもない。ただ表現を自らの業とした一人の人間として、問題に直面している人を思い寄り添いながら、辛い現実も変わらない美しさも、心に映る風景の中から掬い上げていきたいと思う。
人災たる原発事故から1年が経過してなお、東京電力からも国からも、十分な対応を得ることのない福島の現状を歩き、眼前にして、小さくとも声をあげずにいられはしない。そして福島の問題は日本全体の問題に他ならない。それが、原発の問題に関心の高いドイツで福島の写真を掲げる意味であり、ここに拙い文章を記す理由である。
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Daisaku on Jan 26th 2012

音もなく霞む地平線の彼方、大地にひしめく人影が宿した、つかの間の生も、
幾年月に渡る哀しみも、国境にこだまする銃声とともに、いつしか深い霧の中に。
求め、たぐりよせるほどに遠ざかる光を指して、果てなく進む一艘の舟。
1月24日、テオ・アンゲロプロス逝く。76歳であった。
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Daisaku on Jan 17th 2012

神戸市東灘区にて[1996年夏撮影]
忘れようにも忘れられない朝がある。1995年1月17日 — その日、私は大阪市淀川区の実家で、阪神・淡路大震災に遭遇した。東日本大震災の発生から初めての1月17日を迎える今日、17年の歳月が流れても心を去ることのない「あの朝」について、あらためて書き記しておきたい。
午前5時半過ぎ、なぜだか私は目を覚ました。毛布をかぶったまま、枕元に置いたラジオ付き電気時計の明かりをぼんやりと眺めていた。文字盤がぱたり、と音を立てて5時46分。突然、体が放り出されるような強烈な揺れに襲われて飛び上がった[]。 寝具の上に身を起こすが真っすぐに立つことができない。体がバランスを保てない。床が、壁が、家全体が音を立てて激しく揺れていた。ゆっくりとした振動ではない。強く、絶え間のない強烈な揺れだ。夢中で柱にしがみつくその間にも、揺れはますます大きくなってゆく。暗闇の中から「家が倒れるぞ」と父の大声。その瞬間はもう目前のように思えた。必死に考えを巡らせる。もし倒れたら?ここは2階だ、頭上は屋根だけだ。なんとか命だけは助かるかもしれない…
それまで、関西に大きな地震は来ないと言われてきた。何ひとつの根拠もないことだが、おおかたの人はそう思っていたのである。確かに、水害や台風の話は何度も聞かされてきたが[]、地震となると東京の人なら慣れっこのような弱いものでも、関西では珍しいことであった。だがその間違った安心感が、家庭や地域はもとより自治体に至るまで地震への備えを貧弱なものにさせていたのである。
激しい揺れの中で、地面が信じられなくなる。今まで盤石と思った大地が突如として傾ぎ、歪み、立っていることすらできない。強い直下型地震のあの恐怖は、経験した人にしかわからないかもしれない。「大きな地震は来ない」と思い込んできたのだからなおさらであった。揺れがおさまるまでに、かなり時間が経ったように覚えている。とにかく家族の無事を確認できたものの、階下に降りることはできなかった。停電で明かりはなく、外はまだ暗い。近所の犬たちがあちらこちらで、激しく鳴き声をあげている。そのうちに電気時計が動き始め、私はラジオをつけた。ダイヤルを回し、確かNHKだったと思うが「神戸で震度6[]」との報に驚き、須磨に放送局のあるラジオ関西に変えた。スタジオも壊れているが情報が入り次第…というような落ち着いた声が聞こえて、不思議に少しだけ安心する。
やがて夜が明けて1階に降りると、部屋の中は家財が散乱して足の踏み場もないほどになっていた。幸いにも家そのものは無事だったがブロック塀には大きく長いひびが入った[]。ようやくひと通りの片付けを終えてテレビをつけた途端、目に飛び込んだのは六甲の裾野から海沿いまでが黒く煙り、あかあかと炎が立ちのぼる恐ろしい光景だった。子供の頃から慣れ親しんだ元町も三宮も、まだどこかに長閑な雰囲気が残る阪神間の風景も、ことごとく瓦礫に覆われた。阪神高速道路は横倒しになり、ささやかだが素敵な美術館[]へと通った阪急電車の伊丹駅は、電車もろとも倒壊していた。
然るべき対応は思うように行き届かず、多くが後手に回っているようだった。余震は長く続き、私は低い振動音に異常に敏感になった。たとえば戸外に車のディーゼルエンジンの音が近づくだけで、胸の動悸が高まり圧迫されるような不快感を覚えるのである。死者の数は毎朝、新聞を開くたびに増えていった。そうして私はついにその年、カメラを持って神崎川を渡ることはなかった。これについてはいつか書くことがあるだろうと思う。しかし今はまだその時ではない。
東日本大震災とは異なり、仮設住宅の整備は早かった。しかし仮設はあくまでも仮の生活の場所であった[]。暑さ寒さをしのぐことさえ難しいと伝えられ、また旧来の人付き合いを断たれたことによって孤独な死が跡を絶たなかった[]。結局予定を超える5年で仮設住宅は消えたが、自治体の建設した災害復興公営住宅では今もコミュニティの形成に課題が残り[]、民間から借り上げの復興住宅では入居期限があと3年と迫って、こちらは住み替えが問題と聞く。そして、阪神・淡路大震災の残した傷は住居の問題にとどまらず、関西全体の生活と文化活動、経済そして地域行政に色濃い影を落とし続けている[]。
昨年を通してこのブログでも触れてきたが、大きな災害は広い範囲に深く長く爪痕を残し、復興への険しい道のりには多くの方面からの長期にわたる支援が欠かせない。失われた命は帰らず、慣れ親しんだ景色は容易に取り戻せはしないが、時を経ても忘れず支え続ける人が少しでも多くあるならば、災害に遭われた方の未来もやがて照らし出されることと思う。
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Daisaku on Aug 15th 2011

女木島にて[2010年8月5日(出展作品と同日)撮影]
昨日(8月14日)は、大阪で開かれた
東日本大震災へのチャリティ写真展 FOR YOUR SMILE 311 の最終日であった。訪れてみると会場は盛況で、丁寧に一点一点を見てゆく人、あれこれと品定めをしながら作品を選ぶ人の姿が絶えない。311人の写真家が寄せた作品はそれぞれ異なったアプローチを取りながらも、作者の心に沈む言葉にできない何かを静かに語っているようだった。
企画された一人、
小野晃蔵さん とは初対面である。いただいた丁重なメールの行間には熱い心情が潜んでいるように感じたが、お会いしてみるとその印象に違わない方であった。311人ものプロの写真家がはたして賛同してくれるのか、アート、特に写真の市場が成熟しているとは言い難い日本で、作品を購入してもらいチャリティに結びつけることができるのか、そんなことを考えるばかりでは仕方がなくて、とにかくこのようなことは気持ちひとつである。それがなければ跳べないし、辿り着くことも叶わなかっただろう。

会場となった中之島デザインミュージアム(大阪市)[2011年8月14日撮影]
末筆ながら、拙作をお買い上げくださった方に心から御礼をお伝えしたいと思う。主催された皆さんやご覧くださった皆さん、そして買い求められた方の思いがそこに重ならなければ、私のささやかな望みは今支えを必要とされている方々に届かなかった筈である。その意味で、あの一枚は私にとっても特別な作品となった。
言葉にならない、感謝を込めて。
【追記】
実行委員の方より収支報告をいただいた。義援金として計2,412,069円を、日本赤十字社を通じて募金することができたとのことである。お一人おひとりの真情の積み重ねであろうと思う。
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Daisaku on Aug 6th 2011

先日、私に一通のメールが届いた。
大阪の写真家の方からで、東日本大震災で被災された方に向けたチャリティのための写真展を企画しており、出展いただけないかというお誘いであった。311名のプロフォトグラファーの賛同を募り、出展作品の販売と寄付を義援金として日本赤十字に寄付したい、関西から写真を通して少しでも力になれないか…という趣旨には深く頷けるものがあり、私は即座に参加を決めたのである。
関西から見て、東北をはじめとする今回の被災地は、やはり遠い土地である。にもかかわらず少なからぬ関西の人たちや自治体などが、震災の直後から被災者支援へ動いたことには、大阪に育ったものとして誇らしい思いがあった。それにしても関西からの発信でプロの写真家311人を募るなんてえらい大変やで…と内心思ってもいたのだが、ふたを開けてみれば見事に予定の人数を実現できたようで、また私は嬉しくなった。
大きな災害が与えるものは、ただ一時の苦しみばかりではない。16年前のような辛い思いから、できるだけ多くの人が、できるだけ早く開放されることを願うばかりである。僅かでも、その一助となればと思う。
小品ながら拙作もご覧いただけます。暑いさなかではありますが、何とぞ足をお運びくだされば幸いです。
東日本大震災復興支援チャリティー写真展「FOR YOUR SMILE 311」
2011年8月10日(水)〜 14日(日) 12:00 – 19:00
※初日19:00よりオープニングイベント ※会期中無休 ※入場無料
主催・企画:FOR YOUR SMILE 311実行委員会
後援:大阪市
協力:中之島デザインミュージアム de sign de > 、小野晃蔵写真事務所、サンク、木村正史写真事務所、鞍留清隆、木村耕平写真事務所、矢橋恵一、七雲/ヨシダダイスケ、門川裕子写真事務所、(有)オガワジュンゾウ・クリエイツ、(有)シマダデザイン
charity photography exhibition FOR YOUR SMILE 311
Period: August 10, 2011 (Wednesday) to August 14, 2011 (Sunday). 12:00-19:00
Venue: NAKANOSHIMA DESIGN MUSEUM, de sign de >
Address: Nakanoshima Banks East, 5-3-56 Nakanoshima, Kita-ku, Osaka-city, Japan
URL: http://designde.jp/
今日は、広島に原子爆弾が投下されて66年目となる日であった。無慈悲というほかない殺戮を目的とした軍事兵器に対して「平和利用」と喧伝された原子の炎が、私たちの毎日と将来の平和を脅かし続けることとなったいま、あの烈しい陽射しと蝉時雨のもと陽炎に揺れる
ささやかな碑に刻まれたことばを、あらためて省みなければならないと思う。
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Daisaku on Jun 28th 2011

朝の周防灘。この左手に祝島が浮かぶ[山口県光市浅江付近から2008年8月24日撮影]
Seto Inland Sea around Iwaishima island on August 24 2008. Photography by Daisaku oozu.
ほんのささやかに、舵は取られた。瀬戸内海の西端近く、周防灘に面した山口県上関町に計画され、工事が進められようとしていた中国電力上関原子力発電所について、山口県知事は27日の県議会で、予定地の公有水面埋立免許の延長を認めない方針を表明した。これにより、前途に予断は許さないものの、上関原発の建設計画はもとより、政府のエネルギー政策も一層の見直しを迫られることになるだろう。
瀬戸内海は温暖な気候に恵まれ、豊かな生態系を持つ多島海である。瀬戸内に慣れ親しんで育った者として、その風光の美しさと海産物の豊富さは言をまたない。なかでも建設予定地の対岸に位置する祝島周辺は希少な種が生息し、瀬戸内海でも残り僅かな、生物の多様性の保たれた場所ということである。光や徳山といった工場密集地の至近にあって不思議な気もするが、確かに周囲の風景は本当に美しい。
もし上関原発が建設されたなら、原子力発電そのものの持つ危険性のほかにも、発電所からの排水によって水温が上昇し、生態系に深刻な打撃が与えられる。農産物にも風評被害がもたらされる。海と共に生きる島の生活と将来を奪われたくはないという、決して特別のことではない思いが、30年に渡り地道な反対運動を続けた人々の原動力であったと聞く。
4月初め、
気仙沼で被災した牧野君を訪ねた翌日、私はハンドルを握るK君の好意に甘え、1月に撮影したばかりの三陸沿岸を再訪した。高く長い防潮堤はことごとく粉砕され、傾ぎ、水中に没していたが、しかし不幸にして無に帰したとはいえ、三陸の人が積み重ねてきた災害への備えのそれぞれには、過去の経験から学ぶ姿勢が現れていたと思う。いま見られる日本の風景の多くは、自然の力と人間の営為の双方によって形作られているが、私が三陸の風景に見出した好ましさの核心は、自然の厳しさと豊かさを理解して、その中に自分たちの生活を位置づける人々の営みであった。

大畠瀬戸(安芸灘側)。朝の漁の様子[山口県柳井市神代付近から2008年8月24日撮影]
Seto Inland Sea on August 24 2008. Photography by Daisaku oozu.
原発を、少なくとも福島第一原発を作った人々、そして許認可を与えた人々に、そのような姿勢は望むべくもなかったのだろう。地震の絶えない日本で原発という危険性を孕んだ施設を建てるにあたっては、どれほどの慎重さをもってしても足りないのではないかと思えるが、彼らには自然への最低限の畏れすら欠落していた。その結果が、いつ収束するとも知れない今回の原発事故である。危険に曝されているのは、今に生きる私たちばかりではない。続く世代に負の遺産が重くのしかかってゆく。
「安全です」と、繰り返すほどに滲み出る欺瞞。都市から離れた遠隔地に犠牲を強いて成り立つ立地。
16年前、美浜で感じたものが全てであったと思う。たとえ発電所自体の安全性をどれほど高めることができようとも、政治と企業と国民の有りようと関係が根本的に変わらない限り、原子力発電は日本においては危険なものであり続けるだろう。福島の原発事故を受けて周辺自治体が建設反対を掲げる中、推進と反対の狭間でいまも揺れる上関町のように、原発立地には有形無形の負担が強いられ続けるだろう。
私たちはいま、疑いもなく岐路に立っている。明日、明後日と相次いで開催される、各電力会社の株主総会の動向を見守りたいと思う。
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Daisaku on Jun 5th 2011

宮城県気仙沼市 田中前付近[2011年4月2日撮影]
Kesennuma City on April 2 2011. Photography by Daisaku oozu.
車は気仙沼の街を走っていた。砂塵舞う道の両脇には、家具や畳や建具その他あらゆる瓦礫と、海底から運ばれた泥が積み上げられている。目指す牧野君の店は目前にあるのだが、うずたかい瓦礫に遮られ、表通りからは入ることができない。一つ裏の通りに回りこみ、ようやく車のエンジンを切ったK君と私を、牧野君は笑顔で迎えてくれた。津波から3週間が経っていた。
修理の続く店舗の奥の部屋で、仲間達からの御見舞などを手渡し、温かなコーヒーを片手に話を聞く。「高台へ逃げろ」と書いた、私のメールを受け取ってからさほどの間もなく、津波はこの一帯を襲った。ここは湾から3キロメートルほど内陸にあたり、背後には高台が控えている。まさかここまでは…との思いをかき消し、水は店の正面からなだれ込んだ。閉じていた側面のシャッターを突き破って、車が店内に飛び込む。牧野君達はこの奥の部屋に逃げこみ、2階への階段を上った。水かさは増したが1階の天井に達することはなく、彼は階段の途中で私に返信しようとした。しかし、その時にはもう電波が通じなかったという。

宮城県気仙沼市 南郷付近[2011年4月2日撮影]
Kesennuma City on April 2 2011. Photography by Daisaku oozu.
2時間ほどで水は徐々に引いた。腰ほどの高さの水をかき分けて脱出し、高台の向こうの自宅に避難した。家族全員の無事は不幸中の幸いであったが、親類や友人からは訃報が届いた。店も大きな被害を受け、商品のみならず1階部分に大掛かりな修理が必要となった。それでも、
「速攻で再開します」
勢い込んだ声で牧野君はそう言った。自らを奮い立たせるような声だった。流れ込んだ泥はきれいに流され、傷んだ壁は剥がされ、床には真新しい建材が積まれていた。店の外では家族と従業員が什器を洗っていて、時に賑やかな声も聞こえてきた。従業員の中には自宅を津波に流された人、夫が職を失ってしまった人もいる。倉庫に残っている商品からでも、営業を再開したいと彼は言った。十数年前から変わらない朴訥な顔は少し疲れて見えたが、眼には強い決意の光があった。

店舗1階にて[2011年4月2日撮影]
Photography by Daisaku oozu.
再訪を約束して店を辞した。傾き始めた陽射しの中で、人々は忙しく立ち働いていた。重機を動かし瓦礫を運び、幼な子を抱いて、声掛けあって歩いていた。夥しい水と泥と瓦礫に日常を奪われ、崩れた家と船たちが術なく佇む町の中で、しかし留まることのない日々の暮らしに立ち向かう人の表情は、決して沈んではいなかった。「復興」と声には出さずとも、足許と遠い光を見据えて、気仙沼の人々は歩みを進めていた。

宮城県気仙沼市 鹿折唐桑駅付近[2011年4月3日撮影]
Kesennuma City on April 3 2011. Photography by Daisaku oozu.
先月、牧野君の店は営業を再開することができた。付近は片付けられたが、市内でも他の地区では6月の今も泥が残り、大量の蠅が発生しているという。そして市内の避難所には未だ三千数百の人が暮らしている。
県や町ばかりか人それぞれに異なる、復興への長く険しい道程に、いったい誰が十把一絡げにここまで、と「目処」など定められようか。苦しみの土地に今日も生きる人々に、ただひと筋の光あれと心から願う。
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Daisaku on Apr 26th 2011

四倉海水浴場[福島県いわき市四倉にて2011年4月2日撮影]
Yotsukura swimming beach on April 2 2011. 35-kilometer from Fukushima Daiichi Nuclear Power Station. Photography by Daisaku oozu.
波は静かに、とても静かに打ち寄せていた。さざ波に濡れて朝焼けを映す砂浜が美しい。さわやかな朝の渚に、しかし人の姿はない。福島第一原子力発電所から南へ35km、この四倉に暮らす人はいま半数に減ってしまったと聞く。やがて水平線の彼方に一隻の軍艦が現れ、南へと音もなく消えていった。
私の大学時代の友人K君には、いわき市四倉に住むAさんという友人があった。4月1日、所用で同行することになったK君と私は、目的地への途上まずAさん宅へ物資を届けることになったのである。首都高速道路から常磐自動車道に入り、水戸を過ぎる頃から車の数は目に見えて減った。東海村そして日立市と、くぐり抜ける夜景はどこまでも暗く、工場の高い煙突から吐き出される煙だけが夜空を白くまだらに染めた。
福島県に入ると交通量はより少なく、いわき中央インターチェンジからは私たちの車だけとなった。対向車も、前後を走る車もない片側1車線の高速道路の果てに「ここで出よ 車両確認中」の文字が黄色く浮かび上がると、いわき四倉インターチェンジであった。この先は原発事故のために封鎖されている。一般道路に下り四倉の町を目指す。ふと窓を開け夜空を見上げると、幾千幾万の星の光が揺れながらまたたいていた。
泥の帯が道の両側に広がるようになったと思うと、瓦礫や壊れた車がそこここに現れはじめた。常磐線の線路を越えて国道6号線に入る。立ち並ぶ商店や人家に明かりはなく、コンビニエンスストアもガソリンスタンドも店を閉めてしまっていて、どの角を曲がれば良いのか見当がつかない。交差点で停車し地図を確かめる。信号機に取り付けられた電光掲示板が、原子力発電所の20km圏内に避難指示、30km圏内に自主避難要請が出ていると繰り返し告げていたが、それを目にするはずの人も車も、その一切が見当たらない。

四倉舞子浜入口交差点[福島県いわき市四倉にて2011年4月2日撮影]
Yotsukura, Fukushima. Photography by Daisaku oozu.
Aさんは、夫婦に娘さん2人の4人家族。発電所の計器保守を請け負う会社に勤務している。事故発生のあと親類宅に一家で避難したが、勤務先からの指示を受けAさんは帰宅せざるを得なくなった。幼い娘たちを奥さんと避難させたまま、単身の帰宅である。父親から受け継いだ四倉の家は海にほど近く、気候のよい立地をとても気に入っていたが、原発の事故が生活を一変させてしまった。Aさん宅付近にいまも残る住民は約半数となり、燃料の供給は細く、ミネラルウォーターも不足している。
娘たちを今後この土地で育てることは難しい、とAさんは考えている。海も放射性物質に汚染され、泥んこ遊びの好きな娘たちを、浜辺で自由に遊ばせることすらできなくなってしまった。しかし、原発から35kmの立地では自主的な避難に根拠を持たせることができず、今後の補償も望み薄く思われて身動きが取れない。もし引き払うとしても不動産として価値はあるのか。何より、家族が離れて過ごす状態を長く続けるなど、とてもできないこととわかってはいる。だがAさんは、まだ方策を見いだせずにいる。

四倉の家並み[福島県いわき市四倉にて2011年4月2日撮影]
Yotsukura, Fukushima. Photography by Daisaku oozu.
運んできたガソリンとミネラルウォーターなどを車から降ろして、Aさん宅を辞した。車も人も、鳥の姿さえ見あたらない早朝の町を、K君の車は北へと走る。Aさんは私たちと同じ年齢だ。幼い娘さんの描いた、愛らしい何枚もの絵が飾られた居間で、言葉すくなに訥々と語る胸の内は察するに余りあった。
気づけば空に星の姿はなく、前方の一角にゆっくりと光が戻りはじめていた。
カテゴリー: 旅, 東日本大震災 | 2 件のコメント
Daisaku on Apr 16th 2011

昨年の写真展の折、ある方達が素敵なカードをそえて送ってくださった花がある。華やかなだけでなく花の生命力を感じさせる見事なアレンジメントだった。作ったのは東京の豊田にあった花屋さんなのだが、地元でも評判のこの店は再開発のため27年に渡り構えた豊田を離れ、4月から八王子へ移ることになった。
母と娘のお二人で営む「
フラワーショップ Alice」の花は、華やかでありながら飾ったところがない。一輪一輪の生命を感じさせながら可憐さを失わない。何より常に新鮮で長く美しい。さらに実にリーズナブルなお値段である。評判にならない筈がないのだが、お二人は気負った様子も見せず商いを続けている。
移転開業にあたりショーケースを新調することになったのだが、折悪しく、福島県南相馬市の工場で製作されていたケースは津波に遭って流されてしまった。連絡も途絶えアリスのお二人は心配したが、幸い無事に避難されていることがわかり、復興の一助になればと再製作を依頼した。ところが、工場は福島第一原発から10km圏内とのことで戻ることができず、断念するほかなかったとのことである。

落ち着かない日が続きますが、お近くの方はぜひ「フラワーショップ Alice」へ足を運んで差しあげてください。節電のため照明を落とした店内で、しかし花は強く美しく輝いています。歳歳年年人不同…
フラワーショップ Alice
東京都八王子市旭町12-13 旭町ステイタスビル1F TEL. 042-656-6316
JR八王子駅北口より徒歩2分 11am-8pm 水曜日定休
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Daisaku on Mar 24th 2011
福島で会見を開いてみろってんだ…そんな意味の言葉をつぶやいて、Nさんは画面を見やった。テレビでは福島第一原子力発電所の事故について、政府の会見が続いていた。…状況は悪くなるのに、避難指示には変化がない。本当に大丈夫なのか。公式発表は信じられない…。同僚のNさんの実家は福島で、いまも家族が暮らしている。地震と津波に加え原発事故にさらされた福島の苦しみは大きい。そしてこの事故は、すでに福島のみを脅かすものではない。

関西電力 美浜原子力発電所
1995年3月撮影。手前に広がるのは海水浴場。夏は行楽客でにぎわう。[福井県三方郡美浜町にて]
Mihama nuclear plant over swimming beach on March 1995. Photography by Daisaku oozu.
福島浜通りと並び「原発銀座」と称される若狭湾に面した、美浜原子力発電所を私が訪れたのは1995年の春。近くを旅した機会に、原発とはいかなるものかこの目で確かめようという、思えば若い動機からの行動だったが、この体験は私の心に原発への印象を深く刻むことになる。
若狭は遠い。大阪はもちろん東京から遠く離れている。その若狭湾に突き出す敦賀半島の、西岸に沿って十数キロ進んだ先に美浜発電所はある。春の雪の中、不自然なほど立派な県道を延々と進むうちに疑問が浮かぶ。なぜ、電力消費地から離れたこのような遠隔地に、原発が作られなければならないのか?
ようやく辿り着いた発電所には「PRセンター」が併設されていた。模型などを使い原子力発電について紹介しているのだが、ひと気のない館内を巡るうち強く印象に積もるのはただ一つ。幾度も幾度も繰り返し記された「安全です」の言葉の数多さであった。帰途、海水浴場の標識に振り返ると、砂浜の向こうに音もなく、発電所は夕闇に溶けようとしていた。
その年の冬、高速増殖炉もんじゅで火災事故が起こる。1999年には東海村JCO臨界事故があり、2004年には美浜発電所で蒸気漏れ事故と、原子力事故が続けて発生した。これらは設計等のミスや管理不備を原因とする事故だが、2007年7月の新潟県中越沖地震では東京電力柏崎刈羽原子力発電所が被災し、「設計時の想定を超えた」地震の揺れが事故の引き金となって放射性物質が漏洩する。そして今回の震災では、大きな津波が福島第一原子力発電所を襲う。原子炉は緊急停止したが核燃料の冷却機能が失われ、外部に放射性物質が放出された。事態の悪化を防ぐ必死の努力が続いているが、海水、農産物、土壌、水道水と汚染は広がりつつあり、かつてない規模の原子力災害に国内外で動揺が続く。福島から東京は200kmあまり、遠く離れていたはずの原発からの脅威は、首都圏に生きる人々の生活と心にも暗い影を落とし続けている。

左:むつ小川原国家石油備蓄基地
国と民間あわせて全国12か所に設けられた備蓄基地で、国内消費量の半年分の原油を備蓄している。
[青森県上北郡六ヶ所村にて2006年12月29日撮影]
Left: Mutsu-Ogawara National Petroleum Stockpiling Base
Rokkasho-village, Aomori Pref. on 29 December 2006. Photography by Daisaku oozu.
右:根岸製油所と磯子火力発電所
根岸製油所と精製されたガソリンを各地に鉄道輸送するタンク車。奥は磯子火力発電所(燃料は石炭)。
[横浜市磯子区にて2009年9月9日撮影]
Right: Negishi Refinery and railroad tanker, Isogo Thermal Power Plants
Yokohama-city, Kanagawa Pref. on 9 September 2009. Photography by Daisaku oozu.
首都圏のみならず、日本の産業と生活は膨大なエネルギーに支えられている。日本のエネルギー消費量は多く、世界第4位に名を連ねる。一方でエネルギー自給率は低く約96%を輸入に頼り、特にエネルギー供給の約49%を占める原油の自給率は1%にも満たない。オイルショックの経験から政府は石油への依存を減らし備蓄を推進する一方、供給の安定したエネルギーとして原子力の利用を推進している。運転中の原子炉は全国で54基(福島第一原発を含む)におよび、これは世界第3位の数である。「原発銀座」の福島浜通りと若狭湾はそれぞれ10基以上を抱えている。首都圏への一極集中が進む中、過疎に悩む地方の自治体にとって原発の立地による交付金と税収は魅力であり、雇用創出や公共施設と交通の充実など、地域にもたらされるメリットも大きいのである。
事故の主たる原因を「想定外の」自然災害と説明するのはたやすいだろう。しかし、建設に際して危険を「想定できなかった」のではなく、コストや政治的な理由に足をとられて「想定しようとしなかった」側面がありはしないだろうか。厳しい自然条件に囲まれた日本で、放射線の危険をはらむ原発をつくるにあたっては、場所の選定から設計と施工に至るまで、慎重の上に慎重を重ねても足りなかったはずである。

東京電力 柏崎刈羽原子力発電所
新潟県中越沖地震で被災し停止中の姿。手前の護岸も損壊した。[新潟県柏崎市にて2008年1月14日撮影]
Kashiwazaki-Kariwa nuclear plant on 14 January 2008. Much damaged from the Niigataken Chuetsu-oki Earthquake occurred on June 2007. Photography by Daisaku oozu.
エネルギーを惜しみなく使い、便利で快適な生活を享受していたのは私たち一人ひとりに他ならない。日本の自然は険しく厳しいが、それがゆえに豊かで優しい。限られた豊穣をよろこび、それらを知恵をつくして活かし、暮らしをよりよいものとする努力から、私たちは目をそらしてはいなかっただろうか。
例年ならば、桜の開花が次々と伝えられ、頬にあたたかな風を見つける頃となった。めぐる季節の中、福島をやがて東京を、見えない恐怖が包んでゆく。色はなく、音もなく、沈黙の春が訪れる。
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Daisaku on Mar 13th 2011

岩手県九戸郡[2011年1月9日撮影]
余震なのか、揺れを感じて目を覚ます。落ち着かない。16年前の震災の記憶が体の底を走る。しばらくして大阪の友人から電話を受ける。無事か?ありがとう、こちらは無事だが彼は…? 短く話し、礼を言って電話を切った。気仙沼に住む彼の消息は、やはりわからない…。
牧野隆仁君の実家を訪ね、生まれて初めて東北を旅したのは大学3回生の夏だった。飛行機が花巻空港へ降りる直前、眼下に広がった緑の鮮やかさ。赤い機関車に牽かれ盛岡から北へ向かう列車の、開け放した窓から吹き込む爽やかな風と樹々の色。八戸の南、鮫の宿で聞いた深く重い海鳴りの響き。北国への旅の序章ともいえるその旅は、私にとって日本の風土の奥深さをひもといてゆくきっかけとなったのである。
ことし1月、私は十数年ぶりに三陸を訪れた。八戸から久慈、田老、釜石、大船渡、陸前高田、気仙沼から南三陸へ…昨年の津波の痛手からまだ立ち直っていないとはいえ、深く切れ込んだリアス式海岸の入り江に整然と並ぶ養殖のいかだは、三陸の海の豊かさと人々の営みの逞しさを伝えていた。お互いに都合が合わず、牧野君には会えなかったが、得ることの多い撮影行となった。

岩手県釜石市両石町
高い堤防が港と町を区切って建つ。津波はこの堤防を破壊し、ほとんどの建物を跡形なく押し流した。
[JR山田線両石駅付近より2011年1月9日撮影]
それからわずか2ヶ月。想像を絶する凄まじい津波は、過去の災害に学んだ高い堤防をも越え、まだ私の記憶に新しい風景を、変わり果てた姿に塗り潰してしまった。
宮古の売店で餡まんをすすめてくれたおばさん、あたたかなシチューをふるまってくれた盛の皆さん、志津川駅の長い長い階段を集落へと下りていった女子学生。いま、どこでどうしているのだろうか。無事でいてほしいと思う。
そして、牧野君。
気仙沼の惨状は目を覆うばかりで、とても心配しています。ご家族も無事だろうか。私たちには思いもよらないほど今は大変だろうけれども、仲間の誰にでも構わないから、できれば消息を知らせてください。私たちにできることがあれば、手伝いたいと思っています。
気仙沼市茗荷沢在住の、牧野 隆仁(まきの たかひと)君の消息についてご存知の方がいらっしゃいましたら、このブログでも、
Google Person Finder にても構いませんのでどうぞご一報ください。
末筆ながら、今回の地震・津波により被災された皆さまに、謹んでお見舞い申し上げます。
【追記】
消息のわからなかった牧野君の携帯電話から、メールが届きました!
「生きてます。大丈夫です!」
とのこと。地震の後、大きな津波が来るとの情報に私が急ぎ書いた、すぐ高台へ逃げるようにとのメールへの返信でした。またご家族からもご連絡をいただいており、地震のあと高台の自宅へ避難できたようで、その後の音信は不通ながらもひとまず無事とのことです。
余震はもとより恐らく困難な状況が続く中でメールをくれたことを申し訳なく思いつつ、しかしこんなに嬉しい知らせはありません。本当に良かったと思います。
ご関心をお寄せくださいました皆さまに御礼申し上げますとともに、未だ消息の判らない方々のご無事を、心よりお祈り申し上げます。
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Daisaku on Jan 1st 2011

米子を午後11時に出発した夜行バスは、午前2時前にようやく高速道路に入った。
振りつのる雪をかき分け、幾度かオン・ランプに立ち寄ってみるものの、「閉鎖中」の表示と入り口付近に数珠繋ぎになった車の列に出くわすばかりで、雪に埋もれた山中の国道を走り続け、とうとう四十曲峠を越えて岡山県に入り、出発から3時間近く経ってついに中国自動車道に乗ったのであった。新年は、大山の山裾を右に左に進むバスの中で迎えることになった。
雪の降り方は確かに尋常ではなかった。午前中に山陰本線の列車を部分的に遅らせた強風と雪は、午後になって一旦止んだが、夕方からは再び猛烈な勢いで降雪が始まり、あっという間に腰近い高さとなった。それまでの遅れに加え、急にあちらこちらでの踏み切りの支障やポイントの凍結が伝えられるようになり、私の乗った山陰本線から伯備線に入るはずの列車は、米子駅に停車したまま動かなくなってしまった。夜になって運転再開が伝えられたが、私はいやな予感がして列車から降りた。朝までかかっても、岡山に辿り着けそうもないような気がしたのだ。結果的にそれは正解で、他に選択肢もなくなって選んだ大阪行き夜行バスからは、途中駅で立ち往生している特急列車も見えた。何しろ、山陰では観測が始まって以来の積雪という。大山のスキー場では、雪崩を警戒していたパトロールの方が遭難して亡くなり、国道9号線では1000台の車が身動きがとれなくなったままだ。私が2日半の旅程に数時間を加えたのみで無事、大阪の実家へ帰ってこられたのは、全くの幸運とドライバーの技量のおかげだったのである。
つたないブログではありますが、本年もよろしくお願いいたします。
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Daisaku on Dec 20th 2010

2週間にわたって開催された、京都のギャラリーの企画による個展「
光のシークエンス」は、無事に会期を終了いたしました。最終日には寒さもやわらいで、ささやかなレセプションは終始和やかな時間となりました。近隣に他のギャラリー等の少ない場所ながら、先週土曜日の在廊日にも多数のご来場をいただいたほか、平日に遠方よりお越しになった方も多くありました。せわしい年の瀬に、足を運んでくださった皆様に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。


また、今回は熱心な大学生の姿が印象的でした。専攻する分野を問わず、何度も来てくださったり、積極的に話しかけてくださった方も少なくはなく、話していると私自身も刺激を受けることが多く、嬉しい気持ちになりました。私は学生の頃、出会った皆さんほどにしっかりした考えを持っていたとはとても言えないけれど、しかしその当時に自ら築いた小さな礎が基点となり、いまの歩みを支え続けているのです。

車窓に映っては消えてゆく、心の中の風景を捉える試みは、旅のさなかに、また日々の営みのなかに、これからも続いてゆきます。今回ご覧いただくことのできなかった皆様にも、また目にしていただける機会を持てるように、作品に再び磨きをかけたいと思っています。
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Daisaku on Dec 5th 2010

ようやく搬入も終わり、いよいよ明日から、京都のギャラリーの企画による個展「
光のシークエンス」が始まります。お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。私は11日(土)、17日(金)、18日(土)に在廊の予定です。また最終日となる18日(土)14時より、ささやかなレセプションがございます。
写真展の詳しい内容は、
ギャラリー〈space B〉のサイト、また前回の記事をご参照ください。
さて「光のシークエンス」を構成する重要な要素として、スライドショー形式の作品があります。会場ではプロジェクションによる展示を行ないますが、今回は音楽に気鋭のアーティスト、世武裕子さんの作品を使用しています。世武裕子さんは滋賀県出身でパリ・エコールノルマル音楽院に学び、くるりの主宰するレーベル NOISE McCARTNEY RECORDS よりアルバム2枚とミニアルバム1枚をリリースしています。google chrome の CM をご覧になった方も多いのでは。楽曲、歌とも掛け値なしに素晴らしい才能が光るアーティストです。
世武裕子 /
Hiroko Sebu Official MySpace
「光のシークエンス」プロジェクション作品では、アルバム「おうちはどこ?」「リリー」より4曲を、Bad Newsより許諾を得て使用しています。ちょうど会期中の13日(月)に、梅田にてライブがあります。また、28日(火)に幕張メッセで開催される「COUNTDOWN JAPAN」にも出演。詳しくは下記をご参照ください。
Room No. 001 12月13日(月)
梅田Shangri-La w/ カミナリグモ、Half-Life ほか
COUNTDOWN JAPAN 10/11 12月28日(火) 幕張メッセ国際展示場
何より力強く、そして瑞々しく響く旋律。深く暗い森と明るく輝く海を自在に行き来するような、世武裕子さんの音楽。新しいです。ぜひ、聴いてみてください。
企画・主催いただいたギャラリーをはじめ多くの方々のご協力をいただき、かつてない規模の充実した個展を開催できることになりました。あらためて御礼を申し上げます。
師走を迎えて観光客の姿も落ち着いた、京都の冬の風情を味わいがてら、気軽にお越しいただければ幸いです。
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Daisaku on Nov 8th 2010

今日はお知らせです。京都のギャラリーの企画にて、個展を開催することになりました。
関西では久しぶりの、そしてここ数年の集大成となる大きな個展となります。何かと慌ただしい
年の瀬ではございますが、足をお運びいただければ幸いです。詳細は下記をごらんください。
大洲大作写真展 光のシークエンス
2010年12月6日(月)→18日(土) 12:00~18:30 休廊日:12日(日) 土曜日は17:00まで
大阪成蹊大学芸術学部 総合教育研究支援センター ギャラリー〈space B〉(京都府長岡京市)
12月11日(土)・17日(金)・18日(土)は、作家が在廊の予定です。
12月18日(土)14:00より、ささやかなレセプションがございます。
主催・企画:大阪成蹊大学芸術学部 総合教育研究支援センター 芸術研究センター
協賛:ミカ製版株式会社 協力:オリンパスイメージング株式会社 / Bad News
『光のシークエンス』は、一瞬または連続する一瞬に知覚される「光」を主題として、
列車やバスなどの「車窓」に映る光景を主な被写体としながら、心の作用や時の流れが
現実の風景に重ねて見せる、目には見えない光景の断片を定着すべく制作された写真作品です。
本作品は、ドイツのアート雑誌「
Schoengeist」2008年冬号の表紙のほか4見開きにて発表され、
2009年に東京・青山のスパイラルで開催された Spiral Independent Creator’s Festival に
参加の際、国内にて初披露されました。今回、ギャラリー〈spaceB〉での個展においては
プリント作品とプロジェクションを組み合わせ、初めて完全な形で展示されることになります。
会場となります大阪成蹊大学芸術学部(旧 成安造形短期大学)のギャラリー〈space B〉では、
これまでに、写真家では畠山直哉、テキスタイルではミナ ペルホネンほか、ジョン・ケージの
演奏会など、他の学内ギャラリーとは一線を画するたいへん意欲的な展示が企画されています。
〈space B〉サイト:
http://www.os-spaceb.jp/
凛と身の引き締まる空気の中、おだやかな賑わいが静かに響く冬の京都の風情はまた格別です。
古都の散策かたがた、ぜひご高覧賜りますようお願い申し上げます。
Photo Exhibition: Daisaku OOZU, Sequences of Light
Period: 6 Dec.-18 Dec.2010 (Closed on Sun.)
12:00-18:30 (Sat. -17:00)
Venue: Osaka Seikei University, Faculty of Art and Design, gallery space B
Address: 25-1, Choshi 1-chome, Nagaokakyo, Kyoto, 617-0844 Japan
tel: 075-953-1113
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